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室蘭の北炭ローダー基礎はどこ?

 先日、日本遺産「炭鉄港」に関する知見を広めようと、小樽市手宮にある小樽市総合博物館に行ってきました。そのときに周辺を散策し、日本遺産の構成文化財にもなっている「北炭ローダー基礎」を見てきました。

 「ローダー」とは、陸から船に荷物を積み込む装置全般を指す言葉ですが、この場所にあったのは、船に石炭を積み込むためのベルトコンベアでした。
 この基礎の上に鉄骨が組まれ、そこに向けて斜めにベルトコンベアが設置されてて、陸側の貯炭場にある石炭を、船に積み込んでいたのです。
 文章で説明するのは少々厳しいので、どんな姿だったかは以下の参考リンク先をご参照ください。

 この北炭のローダー設備ですが、実はかつて、室蘭にもありました。というか、ローダーに限らず、石炭の積み出し設備一式について、室蘭と手宮には、コピーされたかのように、ほぼほぼ同じ設備が設置されてました。古くは高架桟橋から、近代のトランスポーターやカーダンパー、そしてこのローダーなどすべてです。

 室蘭にもローダー基礎が残っていたなら、それも日本遺産の構成文化財になっても良かったはず。だけど、室蘭には現存しません。
 では、室蘭のローダー基礎はどうなってしまったのか。古い航空写真などを通じて調べてみました。

室蘭のローダーの姿

 まず室蘭のローダーがどんな姿だったのか、本当に小樽と同じものがあったのか、の裏付けを取るために、室蘭のローダーの姿を確認したいと思います。
 実は僕が所有している古絵葉書に、室蘭のローダーの姿が写っているものがありますので紹介します。

 岸壁から少し離れた海上にコンクリート製の基礎が浮かんでおり、そこに鉄骨の塔が建てられ、そこに斜めにベルトコンベアが設置されてます。コンベアを覆う部分には、北炭の社章である、丸で囲まれた星のマークがあります。

 この写真からは大きさが正確にはわかりませんが、小樽のローダーととても良く似た形状であることがわかります。

室蘭の北炭ローダーの位置

 このローダーがどうなったのか? を知るために、戦後の1961年の航空写真を見てみます。この写真は、国土地理院の地図閲覧サービスから引用しています。

 大きな丸の中にローダー2機が写っています。基部は小さな丸の位置です。そして、その部分は岸壁になってます。

 でも、上の写真で見ると基部は海に浮いている。

 ということは、どうやら室蘭の場合は後から、この基部のラインまで埋め立てられて岸壁になっていたようです。

 道理で、それらしい痕跡は見つけられないなぁと思ってましたが、埋め立てられていたとは意外でした。

 場所的には上の方のローダーの位置が現在の港湾部庁舎横の第一バース(港まつりの露店が出るところ)、下の方の位置が現在の合同庁舎の駐車場の角あたりになるようなので、今度本当に痕跡がないのか確認してきたいと思います。

 

冊子版「古絵葉書で辿る百年前の室蘭」を発売しました!

室蘭港開港150年、室蘭市市制施行100年を記念し、2022年に開催した企画展「古絵葉書で辿る100年前の室蘭展」。

3月には室蘭市市民活動センター、4月には旧室蘭駅舎、7月には室蘭を飛び出し、岩見沢市のそらち炭鉱の記憶マネジメントセンターと、3箇所で開催し多くの方にご来場いただきました。

そこで出展した古絵葉書50点を収録した冊子を制作。2023年4月1日より販売開始しました。

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室蘭の就職先は本当に少ないのか

 先日、北海道新聞に「室蘭の転出超過720人、道内2番目の多さ 20代前半流出、就職先の少なさ影響か」というタイトルの記事が載りました。

 確かに室蘭の人口減の速度はかなり早く、毎年千人以上のペースで人口が減っています。しかし、「就職先の少なさ」が原因ではないのでは? と感じます。

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古絵葉書で辿る百年前の室蘭展 シーズン2(於室蘭駅舎)開催します!

 室蘭市市民活動センターで開催し、ご好評を頂きました「古絵葉書で辿る百年前の室蘭展」ですが、明日4月4日(月)より、場所を変えまして旧室蘭駅舎で開催いたします。

 室蘭市の100年は、日本遺産に登録された「炭鉄港」のストーリーなくして語れません。
 そんな「炭鉄港」の構成文化財の一つである、旧室蘭駅舎でこの展示を行えるのは、大変光栄に思っております。
 快く会場を提供して下さった施設管理者の(一社)室蘭観光協会さま、本当にありがとうございます!

 展示内容は、基本的に活センでやった時と同じですが、それだけでは芸がないので、展示物を2枚追加しました。

 それがこれ。明治42年発行の室蘭港明細図と、その裏面です。
 この地図は、主催者がまだ東京で働いていた頃、東京の国立国会図書館で見つけてコピーを取らせて頂いたものです。
 発行元は室蘭タイムス出版部。この会社は戦時統合で「室蘭日報」に統合され、その後に道内の他の10紙とともに統合されて「北海道新聞」になり、現在に至ります。
 裏面には、当時の市内企業の広告がズラリと並び、中には丸井今井や栗林合名会社(現在の栗林商会)、楢崎平太郎氏(ナラサキグループ創業者)の広告など、現在の僕たちにも馴染みのある名前が見られます。
 おそらく、歴史に興味がある方なら、これだけで小一時間は楽しめるはず。(笑)

 旧室蘭駅舎での開催は4月17日(日)までとなります。お時間とご興味があれば、是非お誘い合わせの上、ご来場ください。

<開催概要>
日 時:2022年4月4日(月)~17日(日)
    (旧室蘭駅舎開館時間:8:30~19:00・期間中無休)
場 所:室蘭市旧室蘭駅舎(室蘭市海岸町1-5-1)

 

企画展「古絵葉書で辿る百年前の室蘭展」開催のご案内

 この度、室蘭港開港150年・室蘭市市制施行100年と、FBページ「むろらん・てのつまち写真館」の開設10周年を記念して、企画展「古絵葉書で辿る百年前の室蘭展」を開催することになりました。

 しばらく前から個人的に、室蘭を題材にした古い絵葉書を収集しているのですが、その枚数が50枚近くになっており、そこに使われている写真も明治末期から大正、昭和初期にかけての大変貴重なものが多いこともあり、個人で楽しむにはもったいないと感じるようになりました。

 現物は百年の歳月を経てセピア色に染まり、紙質も劣化し、そのまま展示するにはちょっと心配な状態です。その上、サイズがハガキサイズですので、細かな部分の判別が難しいため、今回全てスキャンして画像データ化しました。今回はその大部分をA4サイズのパネルにして展示します。

 古絵葉書に記録されているのは、町並みや人々のくらし、港や工場の様子、自然景観など様々です。その中には、日本遺産「炭鉄港」に関連するような石炭積み出し・鉄道・工場の歴史に触れられるものもあります。

 是非、古絵葉書を通じて百年前の室蘭を感じていただき、これから100年の室蘭の未来に思いを馳せていただけたら幸いです。

たくさんの皆様のご来場をお待ちしております。

※今回展示予定の絵葉書は、戦前に発売されたもので、70年以上経過しており、基本的に著作権の保護期間は過ぎていると考えておりますが、万が一本展示により権利を侵害されたとお考えの方がおられましたら、即時に該当画像の展示を停止いたしますので、お手数ですが最下段のお問合せ先にご連絡頂けたら幸いです。

開催情報

日 時:
令和4年3月15日(火)から4月2日(土)まで
※最終日は15時まで

場 所:
FKホールディングス室蘭市生涯学習センターきらん内
室蘭市市民活動センター 展示スペース
(室蘭市中島町2丁目22-1 MAP

主 催:
むろらん・てつのまち写真館(山田 正樹)

フライヤー:
こちらからダウンロードしてください。

お問い合わせ:
myamada@tetsumachi.net

気軽に廃道散策気分を味わう -市道唐松平通線

 以前から気になっていたものの、ずっと散策できずにいた場所があります。室蘭市中央町エリアから、測量山に登る途中から、唐松平の駐車場の脇まで通じる道がそれです。
 上の地図は、Open Street Mapに室蘭市の道路台帳を重ねたものですが、実はこの道、「唐松平通線」と言う市道です。

 現在は、携帯のGoogleマップには記載されておらず、PC版Googleマップではうっすら細線で、国土地理院地図では黒実線、つまり徒歩道の扱いです。


Googleマップ 見えるか見えないかの細線


地理院地図 徒歩道を示す黒実線

もともとは戦時中の軍用道路??

 古い航空写真等を見ると、現在の道道(地理院地図の黄色線の道)ができる前からこの市道は存在し、今よりもくっきり、はっきり写っていることがわかります。


(昭和27年 米軍撮影/国土地理院 地図閲覧サービスより)

 他の道路との対比から考えて、舗装はされてなかったのでしょうが、十分に車が走れる道路だったことが伺えます。そして現在のメインルートである道道は影も形もありません。(私の方で、オレンジの薄い線を引いてるのが現在の道路の位置です。)
 そして、唐松平から絵鞆方面に向かう道は、現在の観光道路のルートと同じ位置に見えています。
 ということは、この道はもともとは「清水町から、唐松平を経由して、増市町・港南町方面に向かうメインルートだった」と言えそうです。

 ただ、戦後すぐのこの時代に、こんな山奥にこんな立派な道路を通す必要性は考えにくいのと、戦時中測量山山頂には海軍の観測所が、女測量山には指揮所があったことから、もともとは軍用道路として整備されたことが想定されます。

 そんな歴史を踏まえつつ、散策の様子をご紹介します。

散策 唐松平から清水町へ

 出発地点は、唐松平駐車場です。
 この日(2021年6月5日)の室蘭は、新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言下にありましたが、屋外での散策ということなのか、ここ唐松平も、近くのマスイチ展望台も、ちょっと離れた道の駅「みたら室蘭」も、車でいっぱいになるほどの人出でした。

 そんな中、唐松平広場には目もくれず、僕は道路脇の藪に注目。

 よくよく注意して見ないと見落としそうな場所に、歩行者専用道路の標識と、踏みつけられたような道の入口があります。
 隣にある四角い看板は、地中に電力線が埋められていることを示すもので。地下に6万6千ボルトもの高圧電流を流すケーブルが埋設されているとのこと。祝津地中線と言うらしいですが、こういうものがあるというのも、かつてこの道が幹線だったのであろうことが伺えますね。

 この踏みつけ道に恐る恐る踏み入れると、そこは木々に囲まれた林道のような雰囲気でした。

 かつては1.5車線分くらいは確保されていた道だったのでしょうが、長年の笹の侵食により、現在は人1人が歩ける分だけ維持されている雰囲気です。
 それでも、廃道化はしておらず、人が歩く分は維持されている感じです。これは恐らく、前述の地中電力線の保守のための通路として維持されている側面もあるのかもしれませんね。

 山側の法面は、コンクリートによる治山はおろか、石垣の一つも組まれておらず、土を掘っただけの状態です。よくこれで法面崩壊とかしないもんだなと感心します。

旧道の途中に佇む地蔵尊

 そうしてしばらく進むと、海側に少し開けた場所があり、そこには一柱のお地蔵様が安置されておりました。

 はい。わたくし、石碑や石仏のたぐいは大好物でございます。(笑) このお地蔵様は、きれいな花が供えられており、今なおここに通って手を合わせている人がいることが伺えます。
 まずはしっかりと合掌し、調べさせて頂くお許しを願ってから、じっくり調べます。

 このお地蔵様は「身代わり地蔵尊」だそうです。その下に碑文が刻まれていました。

昭和三□□□(削れて読めないが後述する裏面から37年か)
九月二十□日□立

唐松の
 崖に立ちます
地蔵尊
吾等が命
 守り給ふと

測量山神社
    講中
 外有志一同

 

で、お地蔵様の裏面です。

一九六二年九月
 星野□一(周一か?)
    彫刻

 

 ここからわかることはあまり多くありません。
 建てた人たちが、「測量山神社講中、外有志一同」と刻まれていますが、「測量山神社」は現存していませんが、かつて沢町の一番奥、測量山の中腹にあった神社です。
(山頂近くに現存する「測量山大神」との関係は不明。もしかしたら拝殿・奥宮の関係だったのかも?)
 「講中」は、江戸時代から使われている言葉で、共通の信仰を持つ集団のことです。なので、測量山神社の崇敬者の方たちが、寄付を募って建てたもの、ということになるかと思います。
 建てられた時期は昭和37年(1962年)。戦後の混乱期を抜けて、室蘭は最盛期に向けて発展を続けていた時代ですね。

 ただ、「なんのために?」が疑問ですね。以外に建立から歴史が浅いので、建立に関わった方がまだ市内にいらっしゃるかも。ご存知の方がいたら教えて下さい。

草に埋もれた、なかよしひろば

 そうして旧道を進んでいくと、木々の間から広場のようなものが見えてきました。

 一瞬、「谷地か?」とも思ったのですが、日当たりもよく、広場のような雰囲気です。
 さらに進むと、分岐があり、広場に降りていく道がありました。この写真は一旦通り過ぎて、振り返って撮ったものです。

 写真の左側のゲートを潜って下っていくと、そこには草が伸び放題の広場がありました。

 後で出てきますが、この旧道の清水町側の入口に、朽ちた「室蘭市なかよしひろば」の看板があります。ここがその「なかよし広場」のようです。

 トイレらしきものも整備されており、どうやら公園のような広場のような場所として整備された場所のようですが、残念ながら草が伸びすぎて子供が遊ぶには厳しそう。
 駐車場も無いようですし、今の世の中でここに子供が遊びに来るのはなかなか難しそうですね。しかし、ここはいつ頃からいつ頃まで使われていた公園なのでしょうね? ここもご存知の方がいれば教えて下さい。

そして清水町側入口へ

 「なかよしひろば」から少し歩くと、終点となる清水町側の入口に到着です。

 ここには前述した「室蘭市なかよしひろば」の看板があります。そして、唐松平側にもあった地中線ケーブルの看板も。
 さらに測量山周辺図の看板がかつてあったのですが、いつの間にか全市の観光マップに変わってました。

 清水町側から入ると、しばらく車が通ったとおぼしき轍が刻まれています。もともとは全線こんな感じだったんでしょうけど、現在は「なかよしひろば」の分岐のところまでしかこの道幅はありません。

まとめ

 というわけでこの旧道を踏破したわけですが、全線人1人が歩ける道幅は維持されており、歩いていて気持ちいい散策路でした。
 それでいて、かつて車が走れる規格の道路だったことが伺える様子もあり、ほど良い「廃道感」は感じられます。

 最近では、廃道歩きを趣味とする方たちもいると聞きますが、ちょっとした気分だけ廃道を感じたいなら、ここはおすすめです。
 所要時間は徒歩で片道15分といったところ。自動車道路の規格なので、勾配もそこまできつくはなく、気持ちよく歩けます。何より市街地から車で5分という手軽さと、唐松平の駐車場が使えるというのもポイントが高いと思います。ご興味があれば是非。

 最後に、今から13年ほど前になる2008年頃にここを歩いた方のブログを見つけたのでご紹介します。この頃はまだここまで笹が侵食してなかったんですね。

参考文献

室蘭の戦跡を訪ねて

主催している勉強会「てつまち講座」で近々歩く予定なので、久しぶりにイタンキ浜からトッカリショまで、室蘭の外海岸の崖の上を歩くトレッキングルートを途中まで歩いてみました。

途中、思うところあって、とある場所を調べてみたら、思った以上の収穫があったので、てつまちブログの記事として残しておきます。


出典:国土地理院 地図閲覧サービス
   OpenStreetMap Contoributors

戦争末期、要塞化されていた室蘭

 二重の湾に囲まれた天然の良港であり、鉄鋼業が栄えた室蘭は、先の大戦当時、戦略上重要な都市であるとして、臨時要塞として整備されつつありました。市内各地には陸海軍の防衛陣地が構築され、八丁平には飛行場が設けられ、陸海軍あわせて3千人近い兵士によって守られていました。

 しかしながら敗色濃くなっていた戦争末期の昭和20年7月14日と15日の2日間にわたり、室蘭は激しい艦砲射撃と空襲を受け、市街地はほぼ壊滅。そして戦争も翌月15日に終戦を迎えました。

 その当時を物語るものとして、市内にいくつか戦跡が残っており、有名なのは小橋内町にある海軍のカノン砲掩体ですね。そして、海からの攻撃に備えていた場所が外海岸沿いに何箇所か残っています。今回現地調査したのも、そんな場所の一つです。

海を睨む半円形の場所

場所は最上段の図を見ていただくとして、上の写真で、一面の笹原の中に、不自然な模様が浮き出している部分があるのがわかりますでしょうか。

この場所が何だったのか、残念ながら手持ちの「アメリカが記録した室蘭の防空(工藤洋三・鈴木梅治著)」にも、そのものずばりの記述が無く、特定には至りませんでした。

ただこの写真で言うと、左下の見切れたあたり(現在ソーラーパネルが並んでいるあたり)に海軍の高角砲陣地があり、また右上の見切れたあたり(現在のユースホステルのあたり)に照空陣地があったので、そのどちらかと連動する施設だったのではないかと思います。

北東側の丸で囲った場所については、接近するのが難しそうなので遠望するのみとしました。

今回は比較的容易に接近できた、南側の2箇所を調査しました。

この時期だから近づけた遺構

今回この散策ができたのは、時期的な理由も大きいです。というのも、この場所はこの通り笹原ですので、夏場はかなり背丈のある笹に覆われます。また、虫も多いです。さらに、このわずかな地面の変化を辿ろうとすると、やはり笹に視界を遮られるのは厳しい。まして、ここは平らな場所に見えますが、海抜100m以上の断崖の上に広がっています。うっかり足を踏み外して崖下に真っ逆さま・・・なんてこともありえます。なので夏場の散策はNG。冬はもっとNGです。(^^;

で、目の前に現れた景色がこれです。

これだけだと、どういう光景なのかわからないと思うので、航空写真で示します。

丸のところから東向きに撮ったものです。なので明確に掘り込まれた道の先に、半円形の平場があるのが見えているという状況です。

上の写真をよく見ると同心円上に跡が見えると思いますが半円形の中心部分には窪みがあり、その中央に一段高い円形の部分があります。それこそ機銃か、サーチライトか、レーダーでも設置されていたかのような跡です。

そして半円形の平場の周囲はやや高く土が盛られ、土塁のような構造に囲まれています。図にすると以下のような感じです。

少し角度を変えて撮った写真が以下です。

実際に見るとよくわかるのですが、写真だと土地の起伏がわかりにくいですね。これは南側の一段高いところから撮ったものです。

そして、ここに上がってみて気づいたこと。南側に同じような構造がもう一個あり、道が通じています。

途中の分岐点が笹で覆われており、道に気づきませんでしたが、笹を3メートルほど抜けると道に出られそうです。

というわけで、途中まで戻り、道があると思われる場所に踏み込みます。

すると道が出現。左に大きく曲がった先には、先程見たのと同じような半円形の平場。

ここも北側の、1つ目の平場と全く同じ構造をしていました。
一体これはなんだろう? 謎は深まるばかりです。

手がかりになりそうなのが、西側にある、ミッ◯ーの耳のような小さな2個の円形の空間。これも土木工事によって作られた形跡がありますので、何らかの付帯施設だったものと思われます。
ここに設置されていたのが機銃とか野砲なら、弾薬を溜めておいたスペースかもしれませんし、あるいはここに詰めていた兵士の休憩スペースだったのかもしれません。

とりあえず今回の調査結果は以上ですが、もう少し文言調査した上で、もう一度ちゃんと調査してみたいですね。

室蘭の人口減と、観光業の可能性

先日、室蘭港立市民大学で講演させて頂いてきました。
今回は、ほぼ初めて接触する層に対するお話というのもあり、観光の話をする前に、「なぜ、今室蘭で観光なのか?」を、少し掘り下げて説明しました。

その説明が割とわかりやすくまとまったように思えるので、一部抜粋してここに掲載します。

減り続ける室蘭の人口と市場規模

室蘭市の人口が今、年にどのくらいのペースで減っているか、おおまかでも把握している人はあまりいないと思います。聞いてみると、今の室蘭の人口を把握していない人も結構いるほどですので。

室蘭市の人口は、約8万3千人です。
正確には、2019年9月末時点で83,289人(住民基本台帳ベース)です。

では、今室蘭市では、年にどのくらいの人口が減っているでしょう? その答えとして、直近10年の人口と世帯数の推移を下に示します。

年度 世帯数 人口 増減
2009年度末 47,835 95,150 △900
2010年度末 47,790 94,216 △934
2011年度末 47,589 93,078 △1,138
2012年度末 47,274 91,726 △1,352
2013年度末 47,069 90,181 △1,545
2014年度末 46,787 88,793 △1,388
2015年度末 46,491 87,569 △1,224
2016年度末 46,101 86,061 △1,508
2017年度末 45,715 84,655 △1,406
2018年度末 45,301 83,150 △1,505

この10年間の平均値を取れば、年1200人ほど。
でも、ここ5年くらいの平均値を見ると、年1500人ペースで減っています。

では、その人口減が本市経済に与えている影響を考えてみましょう。
総務省が毎年調査している「家計調査」によると、定住人口1人あたりが年間に消費する金額は約125万円だそうです。

1500人 × 125万円 = 18億7500万円

年間19億円近く、本市の市場が失われているということです。
こんなことを続けると、年商1億の会社が毎年19社ずつ倒産します。

今、何もしなくても、室蘭は毎年これだけ小さくなっているということです。この状況で若者が未来に希望を持てるでしょうか。

さらに、市は今後、室蘭市の人口が6万人程度になっても大丈夫なように、都市計画などの見直しを行ってますが。。。

人口があと23000人減るということは、このまちの市場規模がさらに290億円近く縮小するということです。

観光を新たな室蘭の産業の柱に

この人口減の問題、室蘭が全国的にも最先端を走ってますが、国も道も課題としてとらえています。だからこそ、国も道も観光立国を唱え、海外からの観光客を呼び込み、それを産業としてこの国を下支えしようとしているのです。国のVisit Japanキャンペーンも、道の観光の国づくり計画も同じです。

でも、僕たち室蘭市民にはなかなか、観光が産業というのはピンと来ません。重工業のまちである室蘭にとって、観光は単価が低すぎるため、なかなか具体的な経済効果が見えにくいのです。

というわけで、観光による経済効果を可視化してみたいと思います。
室蘭市の年間観光入込客数は、2018年度実績で124万人にもなります。それほど観光に力を入れているように見えない現状でも、これだけ来ているのです。しかも、2015年以降、増加傾向です。

例えば、この観光客が一人平均2千円の買い物を室蘭市内でしたら、年間の経済効果は24億8千万円になります。
先程、人口減により年に19億円近く市場が減っていると書きましたが、観光客に2千円、余分に使ってもらえれば、補えるだけのお金が室蘭に落ちるのです。

2千円くらいなら、なんとかなりそうだと思いませんか?
例えば、今年リニューアルした道の駅「みたら室蘭」でランチを食べて、うずらんソフトを食べて、お土産を何か買ってくれたら、ちょうど2千円くらいです。

宿泊ならもっと容易です。宿泊費が1泊1万円近いうえ、泊まるということは夕食を室蘭で食べるということなので。
夕食だと、大人の方なら軽く一杯引っ掛けてもらえれば、すぐ数千円になります。

年25億の売上があれば、年商1億の会社を新たに25社養えます。それぞれが市民を雇用すれば、雇用も生まれ、人口減にも歯止めがかかるかもしれません。

また、観光入込客数が例えば6万人増えて130万人になれば、一人2千円計算でも1億2千万円収入が増えます。

もちろん、製造業に比べれば、その経済規模は小さなものです。でも、すでに来ている観光客に、すでにある地域資源を活用して室蘭でしかできない体験をしてもらい、対価をいただく。そこに大きな資本投入も不要ですし、アイディア次第で個人でも参入できる業種とも言えます。その参入障壁の低さから考えると、若者が自分のアイデアを試すには絶好の土地とも言えるのではないかと思います。

参考データ

 

室蘭市議会 会派構成(令和元年時点)

 先般行われた室蘭市議会議員選挙によって選出された市議会議員の会派編成と議会人事が終わり、発表されたようですので、ここでも一度整理してみたいと思います。

最大会派が交代

 今回の会派構成としては、最大会派が入れ替わったことが大きな変化と言えます。これまでは「市政協同」が最大会派でしたが、今回の選挙の結果、第二勢力に後退。変わって最大会派になったのは、「市民ネット・むろらん」です。

会派名 議員名 会派名 議員名
市政結和 南川達彦 市民ネット・
むろらん
滝口紘子
鈴木和彦 長岡充洋
岡田健一 髙橋直美
早川昇三 児玉智明
我妻静夫 小田中稔
金濱元一 水江一弘
令和新緑会 古澤孝市 佐藤潤
早坂博 公明党
室蘭市議会
柏木隆寿
羽立秀光 砂田尚子
日本共産党
室蘭市議団
常磐井茂樹 細川昭広
田村農夫成    

※議席番号順

 市政協同は今回、会派名を市政結和に改めたようです。改選前の勢力は9名でしたが、徳中氏と黒光氏が勇退し、古沢氏が令和新緑会に移籍したため、3名減の6名となりました。

 市民ネット・むろらんは任期半ばで立野氏が死去したため、改選前の議席数は5名だったのですが、改選後は初当選となった滝口氏と長岡氏が加入し、2名増の7名となりました。

 新緑会は今回、会派名を令和新緑会に改め、改選前からの羽立氏・早坂氏に加え、改選後に古沢氏が合流し1名増の3名。

 公明党室蘭市議会と日本共産党室蘭市議団は改選前と変わらぬ顔ぶれで、議席数にも変更はありません。

正副議長人事

 室蘭市議会では、最大会派から議長を、その他の会派から副議長を出すことを慣例としてきたようで、今回も最大会派の市民ネット・むろらんから小田中氏が議長に選出されました。副議長に選出されたのは公明党室蘭市議会の柏木氏です。

 室蘭市議会では11名で過半数となるため、現在どの会派も過半数の議席は保有していません。過半数に達するためには、最低でも3会派の賛成が必要となるため、議会運営の仕方が少し変わってくるのではないかと思います。

今後の注目ポイント

 これまで2年間にわたり、正副議長を務めていたため、質問をしてこなかった金濱氏と細川氏が、どんなテーマを議会で取り上げるのかが注目されます。

参考

前回、これまで4年間の市議会の動きをまとめた記事

室蘭市議会公式Webサイト

幌萌町散策

 10連休も折り返した5月3日、天気も回復し暖かくなったので、以前より、やりたいと思っていた散策を決行することにしました。

 それは、幌萌町散策。
 いくつか目的があって、一つ目は「日頃の運動不足の解消」。これはもうカメラ持って歩き回るしかないと思ってるので、今年はとにかく散策します!(笑)
 二つ目は、この写真の「幌萌町の大桜」を見たことがなかったので、見に行ってみたいということ。
 そして三つ目は、「古道『モロラン道』の調査」です。

古道「モロラン道」の調査

 このテーマ、実はずいぶん前から、LocalWiki室蘭のメンバーとの間で話題になっていました。

 きっかけは、明治11年に室蘭を訪れた英国の女性探検家イザベラ・バードの「日本奥地紀行」。この中で彼女は、平取に行った帰りに、鷲別のあたりからこの「モロラン道」に入って元室蘭に辿り着いたと書いています。

やがて私たちは,街道を離れて,土砂降りの中を人の通らぬ小道にそれて行った」(「日本奥地紀行」p466)

 この道は、明治以前から使われていた道で、埋め立てが進み、国道37号線が現在のルートを通るようになるまでは、室蘭の山側(北海道本島側)のメインルートだったのです。

 ただ、実際この道は「七段坂」と呼ばれるほどのアップダウンの激しい道であるため敬遠され、もっぱら元室蘭から絵鞆まで船で渡り、半島側を行く旅人が多かったと聞きます。イザベラも平取に行く時にはこちらのルートを使ったようです。

 過去のLocalWiki室蘭での議論は、以下リンク先をご参照下さい。

 このような経緯もあって、この「モロラン道」の特定は僕の大きなテーマの一つとなっており、実は港北町から本輪西町にかけてのルートはほぼ特定が完了しています。このエリアは旧道が今も市道・生活道としてよく残っており、辿るのも比較的容易です。

 残る未特定ルートのうち、地図調査や航空写真調査で比較的特定できそうだったのが、今回現地調査をした、本輪西町から幌萌町内にかけてのルートだったのです。
 今回はこのルートの特定も目的の一つでした。

古地図による調査

 手持ちの昭和2年の室蘭港湾市街図に、このモロラン道らしきルートが描かれていたので、それをもとに調査をしました。
 モロラン道と思われるルートを青でマーキングしてあります。

次に、このルートを現在の地図に描き入れてみます。

 赤枠は、次に示す拡大図の範囲を示しているものですが、この範囲内で、現道と一致する部分が結構あります。今回の現地調査対象はこの範囲です。

散策開始!

 前置きが長くなりましたが、散策開始です。
 今回のスタート地点は、上の地図の右下、小がね本輪西店の向かい、昔本輪西郵便局のあった角を曲がったところからです。

 この坂道は、中幌萌川の作る小さな谷(沢)を通っており、この沢は昔から「サルカニ沢」と呼ばれているそうです。
 管理人は港北町生まれ港北町育ちですから、坂道と言えば港北中学校に登る坂道クラスの勾配を覚悟していたのですが、意外にゆるやかで拍子抜け。これなら鼻歌交じりでタラタラ歩いてたら全然息も上がりません。
 それでいて、住宅地を過ぎると、唐突に林道感が出てきて、沢にはあちこちにちょっとした湿地があって、様々な草花が咲き乱れ、木々の間には野鳥の鳴き声がこだまして、大層気持ちのいいウォーキングでした。

 季節柄、まだ葉っぱが無いので日光が直接届きますが、夏場葉の生い茂る時期なら、ちょうどいい木陰の散歩道になるのではないかと思います。

 やがて、この時期にしては不自然な緑が視界の奥に見え始めます。どうやら杉が植林されているようです。
 北海道には杉は自生しませんから、杉の木は、ここにかつて開拓に入った人々がいたことを示す重要な手がかりです。
 室蘭市内では、本輪西町にある五平杉や、南部陣屋跡の周囲の杉林などが有名ですね。

中幌萌地区に到着。本輪西側の古道調査

 杉林を過ぎると、すぐに交差点と人家が見えてきます。交差点にある掲示板には「中幌萌町会」とあることから、この地区は中幌萌と呼ばれているようです。

 そして、この三叉路の向こうを横切る道こそが、僕が「モロラン道」と推定している道です。現在地はここです。

 ここで僕は、あるものを探しました。それは、「馬頭観音」などの、古い街道にまつわる石碑などです。大抵、明治以前から続く古道の沿道には、拠点ごとに馬頭観音などが建立されていることが多く、この「モロラン道」でもこれまで、港北町と本輪西町で1基ずつ馬頭観音を見つけています。
 ただ、残念ながらここにはそういったものは見当たらず。ちょっとがっかりしてしまいましたが、それでもここがモロラン道の最有力候補に違いはないので、気を取り直してさっそく、モロラン道(推定)との交差点に立ち、西の方を見てみましょう。

 1車線ほどの太さの舗装道路が西に向かって続いています。では、反対側の東側を見てみましょう。

 沢の底に向かって下っていく道の途中まで舗装道路、途中から未舗装路になっています。
 この未舗装路、かなり気になります。現在の地図・古地図を見比べても、本輪西町へ下る道はここから分岐しているはず。道の曲がっている方角も地図と一致します。

 なんとなく、民家の庭先に出て「ごめんなさい」することになりそうな予感がありつつも、虎穴に入らずんば虎子を得ず! というわけでこの未舗装路をたどってみることにしました。

 沢底まで降りて、本輪西側の尾根に向かう登り口はちょっとしたカーブになってるんですが、このカーブの内側に尋常じゃない数のデリニエーターが。

 ポールに「室蘭市」とでも書いててくれればわかりやすいのですが、残念ながら所属を示すようなものは何もなし。
 ただ、単なる私道にこんなもの大量に設置する意味はあまりないと思うので、このデリニエーター群は、この未舗装路が「市道」であることを示していると思えてなりません。

 ちなみに、この中幌萌地区と本輪西町を結ぶ古道は、現在も室蘭市道「本輪西・幌萌通線」として登録されており、れっきとした現役市道だったりします。

 一応、ここは公道らしいと安堵しつつ、未舗装路をたどります。路面状況は悪化し、軽トラくらいしか通れないだろ、という道幅になってゆきます。

 そして、この写真の奥、左に大きくカーブした先で・・・

 ちょっとした広場的な空間があり、道は途切れていました。慌てて地図を見ると、どうやらこの途中右側のどこかに分岐というか、本線が伸びているらしい。

 ちなみに上の行き止まりの写真ですが、進行方向は北向いてます。でも、地図では南東方向に進まなきゃいけないはず。ということは、さっきの「左カーブ」がすでに本線から離れているということ。なので南側を気にしつつ、少し戻ります。

 うーん。。道があるとすれば、ここかなぁ、と。

 写真だと見づらいんですが、矢印のあたりにうっすら踏みつけた跡が続いているように見えるんですよね。
 ただ、ここを踏破するとなると、本格的な藪こぎになるので、断念することにしました。今回は軽装で藪こぎに耐えられる装備をしてないですしね。

 でも、少なくともここまではモロラン道の一部と推定しても良いように思えました。

幌萌町の大桜

 さて、再び中幌萌地区の交差点まで戻ってきた僕は、今回のもう一つのテーマである、大桜を見に行くことに。ここからだと、100m歩かずに桜のところまで行けます。

 冒頭ご覧頂いた写真と同じ写真です。ちょっと花見には早く、まだ五分咲きくらいの感じでした。
 明日から毎年恒例の太田亜希子さんのコンサートがあるので、それまでにもう少し開いてくれると嬉しいですね。

 樹齢180年超の大桜との対面を済ました後は、どのルートで帰ろうか、と考えます。

 とりあえず想定していたのは、本輪西町に降りるか、古道を辿って幌萌川の沢を下るか、もと来た道を戻るかの3択でした。

 本輪西に降りるのは、先程散策した古道が本輪西に通じていれば、そこを通ってみたいというものでしたが、残念ながら道は藪に消えてました。そして、古道ではない別の新しい道を辿るのであれば、別に本輪西に降りる必要はない。

 となると、もと来た道を戻るか、幌萌川の沢を下るか、です。後者はかなり遠回りになるため、寒かったり、残り体力に自身が無い場合はやめようと思ってましたが・・・ 
 幸い想定以上に暖かく、また風は強めでしたが、むしろ火照った体にはちょうどよく。実に歩いてて気持ちのいい日でしたので、無理せずゆっくりと歩いて、古道を辿り幌萌川の沢を下ることとしました。

 というわけで、三度古道との交差点に戻ります。

古道散策 中幌萌~幌萌川

 先程の交差点に戻り、古道を西へ進みます。
 ちょうど交差点は沢の中にある感じなので、ここからは西側の尾根を越えていく感じになります。
 とは言え、鞍部を越えるので、地形図で見てもせいぜい30mほどの尾根をなだらかに上り下りするだけです。

 古道を歩き始めてすぐに、南側の山林に不思議な看板が。

大昭和製紙株式会社所有地

って本当に!!??

 大昭和は随分前に日本製紙と合併して、今は存在しないはず。紙の原料にするにしても、この程度の山林じゃ全然足りないのでは? 
 この辺りはもともと栗林家、現在は室蘭埠頭株式会社の所有地が多いようなので、もしかしたら、なにか栗林家との間で歴史的な経緯があるのかもしれませんね。

 そうこうしているうちに、道路が未舗装の砂利道に。それこそ牧場の管理道路のような雰囲気になってきたので、おいおい大丈夫か? と自問しつつ前進。

 すると、出てきました。こんな看板が。

 あーあ。落ち葉に埋もれて何書いてるんだかわからない。でも、僕はこの道の進んだ先、向こう側の入り口で同じ看板を見たことがあるので、すぐにピンときました。
 先に出しちゃいますが、これです。

 

この先、避難道路に付緊急時以外の車両の通行を禁止します

 いや、しつこいようですけど、ここって市道ですよね? 公道ですよね? なのに車両通行禁止って。

 まぁ、管理者である室蘭市がそう言っているのでは仕方ありません。でも、今日の僕は、こんなこともあろうかと、徒歩で来ています。徒歩での通行を禁止する、とは書いてないので、そのままスルーして先に進みます。

 古道を進み尾根に出ると、開放的な高原的景観が待っています。広々とした牧草地に、遠く室蘭岳が映えますね。

 先程の林道的景観といい、この高原的景観といい、本当に室蘭って、狭いのにいろんな顔を持ったまちだよなぁとつくづく思います。このまちに生まれて良かった!

 というわけで、古道の散策を続けます。
 実はこちら側の古道ですが、もともとの古道をなぞっているのはほんの200mほど。本来はまっすぐ西を目指すはずの道は、突然進路を変えて北西の方角へ。

 この地図のとおり、すっぱり樹林帯が切れてるんですが、道はどんどん樹林帯の切れ目から離れていく。。

 そして道はぐねぐねと小さなヘアピンカーブを重ねて谷の中へと下っていきます。

 谷底につくと、そこにも牧草地がありますが、やがて笹原に囲まれ、周囲は再び湿地帯に。

 で、そろそろ、本来まっすぐ西進しているはずの古道がこの道と交差するあたりですが・・・ 今越えてきた東側の尾根を見ると・・・ 小さな沢があるので、道があったとしたらここかなぁという感じですが、なんとも断定する材料がありません。

 僕の想像ですが、この道の「付け替え」は、近世以来の「徒歩・馬の道」であったこの古道を、「自動車道路」として整備するために、この尾根に登る部分がどうしてもそのままでは勾配を緩和できなかったのが理由ではないかと感じました。
 この部分、尾根の上からここまで距離が約150mほど。対して高度差が、地形図から読み取った範囲では45mほどあります。これを直滑降で下りてくると、勾配は30%近くになります。とても自動車道として供用できる勾配ではない。
 かと言って、この小さな沢では、つづら折りをする十分なスペースもない。なので、道を上流側に大きく迂回させ、3連のヘアピンカーブを経て勾配を緩和したのではないか。。。そんな気がします。
 歴史の闇に埋もれてしまった真実を掘り起こすのは容易ではありませんけどね。

 さて、一応、想像ではありますが東側の道について結論を付けた後は、西側の陣屋町方面に向かう尾根越えの道探しです。
 これは比較的簡単に見つかりました。

ここですね。わかりますか?

 奥を横切る道に向かって、手前から道が伸びていますね。残念ながら封鎖されてますが。

 奥の道を目で追うと、右側に向かって尾根の上に道が続いていました。航空写真を見ると、この尾根の上に牧場のような施設が写ってますので、今はそこへのアクセス道として活用されているのだと思います。
 これも途中まで市道のはずなんですが・・・ 封鎖している道を辿るのは、また次の機会ですね。

 あとは、再び住宅街=人間の世界に復帰し、国道まで下りたあと、国道を伝って本輪西まで戻りました。

まとめ

 ずっと気になっていながら、ようやく今回散策を結構した幌萌町ですが、やはり「自分の足で歩く」「歩くスピードで見て、考える」ことが、歴史を辿る上でとても重要だなぁと感じました。

 この古道が最も活用されていた時代、人々の交通手段は、自分たちの二本の足か、馬だったわけで。今の自動車が当たり前の感覚とはまったく別次元です。それを辿ろうとした時には、やはり僕らは自動車という文明の力からは下りて、当時の人たちと同じ状況に身を置くことで、初めて見えてくるものもたくさんあるなぁ、と改めて感じた散策でした。

 さて、古道「モロラン道」ですが、今回でおおむね幌萌町内のルートが確定できたかな、と思います。

 あとは幌萌町-陣屋町間(白鳥大橋建設・日石建設に伴う埋め立て・鉄道移設による大規模な地形改変あり)と、西陣屋-本室蘭間(白鳥台造成で大規模な地形改変あり)、知利別町-八丁平-港北町(飛行場建設・八丁平造成で大規模な地形改変あり)と、いずれも大規模な地形改変が行われた場所ばかりなので、その断片をいかに拾えるか、みたいな感じになります。

 引き続き古道調査、進めます!