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室蘭は道南から道央になった?

 少し前にX(旧Twitter)で、「室蘭は道南か、道央か」という話題がありました。

 この話、歴史や地理的に考察してみると、いろいろ面白かったので、小話的に取り上げてみたいと思います。

はじめに ~室蘭は道南か、道央か。

 道南・道央という言葉は、内地の方にはわかりにくい表現だと思うので、ざっくりと説明します。

 札幌を中心として、小樽~岩見沢あたりまでと、石狩~苫小牧あたりまでのエリアと周辺エリアを「北海道の中央」という意味で「道央」と呼びます。

 その南というか、南西部分が「道南」。北側、旭川から稚内までとその周辺が「道北」、大雪山~日高山脈の北海道の背骨ラインより東を「道東」と呼びます。ちなみに「道西」という表現はほとんど聞いたことがありません。

 室蘭市は、地理的には道央と道南の境界付近に位置しており、ある時は「道南」だったり、ある時は「道央」だったりします。

 天気予報のエリア分けの時は「道南」に割り振られたり、全道区の企業とかだと、「道南支社」「道南営業部」に割り振られたり、「道南バス」のような「道南」を冠する企業が立地してたりしますね。

 でも、最近は「道央」に割り振られているケースを多く見かける気がします。

 

道央とはどこまでか

 もう感覚的な話ではあるんですが、「札幌の経済圏の影響下」にある地域は道央という意識で良いと思います。

 札幌の企業や大企業の札幌支店・札幌支社の営業エリアであるところは道央って話です。その南側にあるのが道南です。

 そう考えた場合に、この話とは、「流通と交通の発達」が背景にあると考えられます。

 通常、企業は「拠点から日帰りできる場所」には拠点を置きません。今は1泊くらいでも置きませんが・・・。

 かつて、室蘭は「札幌から日帰りすることができない場所」だったので、「札幌の経済圏の外」イコール「道南」に含まれていた可能性が高いと思うのです。

北海道が劇的に「縮んだ」この30年間

 高速道路の「登別室蘭IC」が開設されたのが1986年。それまで室蘭には高速が通じていませんでした。

 そして、JRの高速化の象徴である振り子特急「スーパー北斗」の登場が1994年です。

 道南バスが都市間高速バスを走らせ始めるのも1985年頃から。

 今からは考えにくいことですが、今室蘭と札幌を繋いでいる交通手段のほとんどが、この30-40年の間に高速化されてきたということです。

 それ以前は、札幌との行き来には、もっともっと時間がかかっていたということになるんですね。

 その頃は、室蘭の人口もまだ15万人くらいいた時代で、企業の拠点が多く置かれていました。そうした背景から、「札幌とは別の拠点都市」「別の経済圏」、だから「道南の一部」という意識が強いのではないかと思います。

 ですが、都市間交通の発達に伴って、室蘭に置かれていた拠点はどんどん札幌に集約されていきます。あわせて、人口もどんどん減り、現在は8万人を割っています。すると、現在の室蘭は「札幌経済圏の一部」としか見なされなくなった。だから、「道央エリアの一部」と見なされるようになった。おそらく、そんな感じじゃないかと思います。

 そう考えると、現在室蘭市内にある「道南」を冠する企業は、室蘭の繁栄を今に伝える生き証人と言えるかもしれませんね。

「室蘭てつのまち振興会」を設立。公式サイトを公開しました。

この度、むろらん・てつのまちグループはじめ、様々な活動・事業を束ねる会「室蘭てつのまち振興会」を設立。公式サイトを公開しました。

今後、会としてのお知らせ等は、公式サイトの方に掲載してまいりますので、こちらもお気に入り登録等をよろしくお願いいたします。

今後、この「てつまちブログ」は、「室蘭てつのまち振興会」の「調査研究事業」における発信の場として継続して参ります。現在掲載中のコンテンツも引き続き維持しますので、こちらもあわせてご活用ください。

今後とも、室蘭てつのまち振興会をよろしくお願いいたします。

室蘭の北炭ローダー基礎はどこ?

 先日、日本遺産「炭鉄港」に関する知見を広めようと、小樽市手宮にある小樽市総合博物館に行ってきました。そのときに周辺を散策し、日本遺産の構成文化財にもなっている「北炭ローダー基礎」を見てきました。

 「ローダー」とは、陸から船に荷物を積み込む装置全般を指す言葉ですが、この場所にあったのは、船に石炭を積み込むためのベルトコンベアでした。
 この基礎の上に鉄骨が組まれ、そこに向けて斜めにベルトコンベアが設置されてて、陸側の貯炭場にある石炭を、船に積み込んでいたのです。
 文章で説明するのは少々厳しいので、どんな姿だったかは以下の参考リンク先をご参照ください。

 この北炭のローダー設備ですが、実はかつて、室蘭にもありました。というか、ローダーに限らず、石炭の積み出し設備一式について、室蘭と手宮には、コピーされたかのように、ほぼほぼ同じ設備が設置されてました。古くは高架桟橋から、近代のトランスポーターやカーダンパー、そしてこのローダーなどすべてです。

 室蘭にもローダー基礎が残っていたなら、それも日本遺産の構成文化財になっても良かったはず。だけど、室蘭には現存しません。
 では、室蘭のローダー基礎はどうなってしまったのか。古い航空写真などを通じて調べてみました。

室蘭のローダーの姿

 まず室蘭のローダーがどんな姿だったのか、本当に小樽と同じものがあったのか、の裏付けを取るために、室蘭のローダーの姿を確認したいと思います。
 実は僕が所有している古絵葉書に、室蘭のローダーの姿が写っているものがありますので紹介します。

 岸壁から少し離れた海上にコンクリート製の基礎が浮かんでおり、そこに鉄骨の塔が建てられ、そこに斜めにベルトコンベアが設置されてます。コンベアを覆う部分には、北炭の社章である、丸で囲まれた星のマークがあります。

 この写真からは大きさが正確にはわかりませんが、小樽のローダーととても良く似た形状であることがわかります。

室蘭の北炭ローダーの位置

 このローダーがどうなったのか? を知るために、戦後の1961年の航空写真を見てみます。この写真は、国土地理院の地図閲覧サービスから引用しています。

 大きな丸の中にローダー2機が写っています。基部は小さな丸の位置です。そして、その部分は岸壁になってます。

 でも、上の写真で見ると基部は海に浮いている。

 ということは、どうやら室蘭の場合は後から、この基部のラインまで埋め立てられて岸壁になっていたようです。

 道理で、それらしい痕跡は見つけられないなぁと思ってましたが、埋め立てられていたとは意外でした。

 場所的には上の方のローダーの位置が現在の港湾部庁舎横の第一バース(港まつりの露店が出るところ)、下の方の位置が現在の合同庁舎の駐車場の角あたりになるようなので、今度本当に痕跡がないのか確認してきたいと思います。

 

冊子版「古絵葉書で辿る百年前の室蘭」を発売しました!

室蘭港開港150年、室蘭市市制施行100年を記念し、2022年に開催した企画展「古絵葉書で辿る100年前の室蘭展」。

3月には室蘭市市民活動センター、4月には旧室蘭駅舎、7月には室蘭を飛び出し、岩見沢市のそらち炭鉱の記憶マネジメントセンターと、3箇所で開催し多くの方にご来場いただきました。

そこで出展した古絵葉書50点を収録した冊子を制作。2023年4月1日より販売開始しました。

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室蘭の就職先は本当に少ないのか

 先日、北海道新聞に「室蘭の転出超過720人、道内2番目の多さ 20代前半流出、就職先の少なさ影響か」というタイトルの記事が載りました。

 確かに室蘭の人口減の速度はかなり早く、毎年千人以上のペースで人口が減っています。しかし、「就職先の少なさ」が原因ではないのでは? と感じます。

続きを読む 室蘭の就職先は本当に少ないのか

古絵葉書で辿る百年前の室蘭展 シーズン2(於室蘭駅舎)開催します!

 室蘭市市民活動センターで開催し、ご好評を頂きました「古絵葉書で辿る百年前の室蘭展」ですが、明日4月4日(月)より、場所を変えまして旧室蘭駅舎で開催いたします。

 室蘭市の100年は、日本遺産に登録された「炭鉄港」のストーリーなくして語れません。
 そんな「炭鉄港」の構成文化財の一つである、旧室蘭駅舎でこの展示を行えるのは、大変光栄に思っております。
 快く会場を提供して下さった施設管理者の(一社)室蘭観光協会さま、本当にありがとうございます!

 展示内容は、基本的に活センでやった時と同じですが、それだけでは芸がないので、展示物を2枚追加しました。

 それがこれ。明治42年発行の室蘭港明細図と、その裏面です。
 この地図は、主催者がまだ東京で働いていた頃、東京の国立国会図書館で見つけてコピーを取らせて頂いたものです。
 発行元は室蘭タイムス出版部。この会社は戦時統合で「室蘭日報」に統合され、その後に道内の他の10紙とともに統合されて「北海道新聞」になり、現在に至ります。
 裏面には、当時の市内企業の広告がズラリと並び、中には丸井今井や栗林合名会社(現在の栗林商会)、楢崎平太郎氏(ナラサキグループ創業者)の広告など、現在の僕たちにも馴染みのある名前が見られます。
 おそらく、歴史に興味がある方なら、これだけで小一時間は楽しめるはず。(笑)

 旧室蘭駅舎での開催は4月17日(日)までとなります。お時間とご興味があれば、是非お誘い合わせの上、ご来場ください。

<開催概要>
日 時:2022年4月4日(月)~17日(日)
    (旧室蘭駅舎開館時間:8:30~19:00・期間中無休)
場 所:室蘭市旧室蘭駅舎(室蘭市海岸町1-5-1)

 

企画展「古絵葉書で辿る百年前の室蘭展」開催のご案内

 この度、室蘭港開港150年・室蘭市市制施行100年と、FBページ「むろらん・てのつまち写真館」の開設10周年を記念して、企画展「古絵葉書で辿る百年前の室蘭展」を開催することになりました。

 しばらく前から個人的に、室蘭を題材にした古い絵葉書を収集しているのですが、その枚数が50枚近くになっており、そこに使われている写真も明治末期から大正、昭和初期にかけての大変貴重なものが多いこともあり、個人で楽しむにはもったいないと感じるようになりました。

 現物は百年の歳月を経てセピア色に染まり、紙質も劣化し、そのまま展示するにはちょっと心配な状態です。その上、サイズがハガキサイズですので、細かな部分の判別が難しいため、今回全てスキャンして画像データ化しました。今回はその大部分をA4サイズのパネルにして展示します。

 古絵葉書に記録されているのは、町並みや人々のくらし、港や工場の様子、自然景観など様々です。その中には、日本遺産「炭鉄港」に関連するような石炭積み出し・鉄道・工場の歴史に触れられるものもあります。

 是非、古絵葉書を通じて百年前の室蘭を感じていただき、これから100年の室蘭の未来に思いを馳せていただけたら幸いです。

たくさんの皆様のご来場をお待ちしております。

※今回展示予定の絵葉書は、戦前に発売されたもので、70年以上経過しており、基本的に著作権の保護期間は過ぎていると考えておりますが、万が一本展示により権利を侵害されたとお考えの方がおられましたら、即時に該当画像の展示を停止いたしますので、お手数ですが最下段のお問合せ先にご連絡頂けたら幸いです。

開催情報

日 時:
令和4年3月15日(火)から4月2日(土)まで
※最終日は15時まで

場 所:
FKホールディングス室蘭市生涯学習センターきらん内
室蘭市市民活動センター 展示スペース
(室蘭市中島町2丁目22-1 MAP

主 催:
むろらん・てつのまち写真館(山田 正樹)

フライヤー:
こちらからダウンロードしてください。

お問い合わせ:
myamada@tetsumachi.net

気軽に廃道散策気分を味わう -市道唐松平通線

 以前から気になっていたものの、ずっと散策できずにいた場所があります。室蘭市中央町エリアから、測量山に登る途中から、唐松平の駐車場の脇まで通じる道がそれです。
 上の地図は、Open Street Mapに室蘭市の道路台帳を重ねたものですが、実はこの道、「唐松平通線」と言う市道です。

 現在は、携帯のGoogleマップには記載されておらず、PC版Googleマップではうっすら細線で、国土地理院地図では黒実線、つまり徒歩道の扱いです。


Googleマップ 見えるか見えないかの細線


地理院地図 徒歩道を示す黒実線

もともとは戦時中の軍用道路??

 古い航空写真等を見ると、現在の道道(地理院地図の黄色線の道)ができる前からこの市道は存在し、今よりもくっきり、はっきり写っていることがわかります。


(昭和27年 米軍撮影/国土地理院 地図閲覧サービスより)

 他の道路との対比から考えて、舗装はされてなかったのでしょうが、十分に車が走れる道路だったことが伺えます。そして現在のメインルートである道道は影も形もありません。(私の方で、オレンジの薄い線を引いてるのが現在の道路の位置です。)
 そして、唐松平から絵鞆方面に向かう道は、現在の観光道路のルートと同じ位置に見えています。
 ということは、この道はもともとは「清水町から、唐松平を経由して、増市町・港南町方面に向かうメインルートだった」と言えそうです。

 ただ、戦後すぐのこの時代に、こんな山奥にこんな立派な道路を通す必要性は考えにくいのと、戦時中測量山山頂には海軍の観測所が、女測量山には指揮所があったことから、もともとは軍用道路として整備されたことが想定されます。

 そんな歴史を踏まえつつ、散策の様子をご紹介します。

散策 唐松平から清水町へ

 出発地点は、唐松平駐車場です。
 この日(2021年6月5日)の室蘭は、新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言下にありましたが、屋外での散策ということなのか、ここ唐松平も、近くのマスイチ展望台も、ちょっと離れた道の駅「みたら室蘭」も、車でいっぱいになるほどの人出でした。

 そんな中、唐松平広場には目もくれず、僕は道路脇の藪に注目。

 よくよく注意して見ないと見落としそうな場所に、歩行者専用道路の標識と、踏みつけられたような道の入口があります。
 隣にある四角い看板は、地中に電力線が埋められていることを示すもので。地下に6万6千ボルトもの高圧電流を流すケーブルが埋設されているとのこと。祝津地中線と言うらしいですが、こういうものがあるというのも、かつてこの道が幹線だったのであろうことが伺えますね。

 この踏みつけ道に恐る恐る踏み入れると、そこは木々に囲まれた林道のような雰囲気でした。

 かつては1.5車線分くらいは確保されていた道だったのでしょうが、長年の笹の侵食により、現在は人1人が歩ける分だけ維持されている雰囲気です。
 それでも、廃道化はしておらず、人が歩く分は維持されている感じです。これは恐らく、前述の地中電力線の保守のための通路として維持されている側面もあるのかもしれませんね。

 山側の法面は、コンクリートによる治山はおろか、石垣の一つも組まれておらず、土を掘っただけの状態です。よくこれで法面崩壊とかしないもんだなと感心します。

旧道の途中に佇む地蔵尊

 そうしてしばらく進むと、海側に少し開けた場所があり、そこには一柱のお地蔵様が安置されておりました。

 はい。わたくし、石碑や石仏のたぐいは大好物でございます。(笑) このお地蔵様は、きれいな花が供えられており、今なおここに通って手を合わせている人がいることが伺えます。
 まずはしっかりと合掌し、調べさせて頂くお許しを願ってから、じっくり調べます。

 このお地蔵様は「身代わり地蔵尊」だそうです。その下に碑文が刻まれていました。

昭和三□□□(削れて読めないが後述する裏面から37年か)
九月二十□日□立

唐松の
 崖に立ちます
地蔵尊
吾等が命
 守り給ふと

測量山神社
    講中
 外有志一同

 

で、お地蔵様の裏面です。

一九六二年九月
 星野□一(周一か?)
    彫刻

 

 ここからわかることはあまり多くありません。
 建てた人たちが、「測量山神社講中、外有志一同」と刻まれていますが、「測量山神社」は現存していませんが、かつて沢町の一番奥、測量山の中腹にあった神社です。
(山頂近くに現存する「測量山大神」との関係は不明。もしかしたら拝殿・奥宮の関係だったのかも?)
 「講中」は、江戸時代から使われている言葉で、共通の信仰を持つ集団のことです。なので、測量山神社の崇敬者の方たちが、寄付を募って建てたもの、ということになるかと思います。
 建てられた時期は昭和37年(1962年)。戦後の混乱期を抜けて、室蘭は最盛期に向けて発展を続けていた時代ですね。

 ただ、「なんのために?」が疑問ですね。以外に建立から歴史が浅いので、建立に関わった方がまだ市内にいらっしゃるかも。ご存知の方がいたら教えて下さい。

草に埋もれた、なかよしひろば

 そうして旧道を進んでいくと、木々の間から広場のようなものが見えてきました。

 一瞬、「谷地か?」とも思ったのですが、日当たりもよく、広場のような雰囲気です。
 さらに進むと、分岐があり、広場に降りていく道がありました。この写真は一旦通り過ぎて、振り返って撮ったものです。

 写真の左側のゲートを潜って下っていくと、そこには草が伸び放題の広場がありました。

 後で出てきますが、この旧道の清水町側の入口に、朽ちた「室蘭市なかよしひろば」の看板があります。ここがその「なかよし広場」のようです。

 トイレらしきものも整備されており、どうやら公園のような広場のような場所として整備された場所のようですが、残念ながら草が伸びすぎて子供が遊ぶには厳しそう。
 駐車場も無いようですし、今の世の中でここに子供が遊びに来るのはなかなか難しそうですね。しかし、ここはいつ頃からいつ頃まで使われていた公園なのでしょうね? ここもご存知の方がいれば教えて下さい。

そして清水町側入口へ

 「なかよしひろば」から少し歩くと、終点となる清水町側の入口に到着です。

 ここには前述した「室蘭市なかよしひろば」の看板があります。そして、唐松平側にもあった地中線ケーブルの看板も。
 さらに測量山周辺図の看板がかつてあったのですが、いつの間にか全市の観光マップに変わってました。

 清水町側から入ると、しばらく車が通ったとおぼしき轍が刻まれています。もともとは全線こんな感じだったんでしょうけど、現在は「なかよしひろば」の分岐のところまでしかこの道幅はありません。

まとめ

 というわけでこの旧道を踏破したわけですが、全線人1人が歩ける道幅は維持されており、歩いていて気持ちいい散策路でした。
 それでいて、かつて車が走れる規格の道路だったことが伺える様子もあり、ほど良い「廃道感」は感じられます。

 最近では、廃道歩きを趣味とする方たちもいると聞きますが、ちょっとした気分だけ廃道を感じたいなら、ここはおすすめです。
 所要時間は徒歩で片道15分といったところ。自動車道路の規格なので、勾配もそこまできつくはなく、気持ちよく歩けます。何より市街地から車で5分という手軽さと、唐松平の駐車場が使えるというのもポイントが高いと思います。ご興味があれば是非。

 最後に、今から13年ほど前になる2008年頃にここを歩いた方のブログを見つけたのでご紹介します。この頃はまだここまで笹が侵食してなかったんですね。

参考文献

室蘭の戦跡を訪ねて

主催している勉強会「てつまち講座」で近々歩く予定なので、久しぶりにイタンキ浜からトッカリショまで、室蘭の外海岸の崖の上を歩くトレッキングルートを途中まで歩いてみました。

途中、思うところあって、とある場所を調べてみたら、思った以上の収穫があったので、てつまちブログの記事として残しておきます。


出典:国土地理院 地図閲覧サービス
   OpenStreetMap Contoributors

戦争末期、要塞化されていた室蘭

 二重の湾に囲まれた天然の良港であり、鉄鋼業が栄えた室蘭は、先の大戦当時、戦略上重要な都市であるとして、臨時要塞として整備されつつありました。市内各地には陸海軍の防衛陣地が構築され、八丁平には飛行場が設けられ、陸海軍あわせて3千人近い兵士によって守られていました。

 しかしながら敗色濃くなっていた戦争末期の昭和20年7月14日と15日の2日間にわたり、室蘭は激しい艦砲射撃と空襲を受け、市街地はほぼ壊滅。そして戦争も翌月15日に終戦を迎えました。

 その当時を物語るものとして、市内にいくつか戦跡が残っており、有名なのは小橋内町にある海軍のカノン砲掩体ですね。そして、海からの攻撃に備えていた場所が外海岸沿いに何箇所か残っています。今回現地調査したのも、そんな場所の一つです。

海を睨む半円形の場所

場所は最上段の図を見ていただくとして、上の写真で、一面の笹原の中に、不自然な模様が浮き出している部分があるのがわかりますでしょうか。

この場所が何だったのか、残念ながら手持ちの「アメリカが記録した室蘭の防空(工藤洋三・鈴木梅治著)」にも、そのものずばりの記述が無く、特定には至りませんでした。

ただこの写真で言うと、左下の見切れたあたり(現在ソーラーパネルが並んでいるあたり)に海軍の高角砲陣地があり、また右上の見切れたあたり(現在のユースホステルのあたり)に照空陣地があったので、そのどちらかと連動する施設だったのではないかと思います。

北東側の丸で囲った場所については、接近するのが難しそうなので遠望するのみとしました。

今回は比較的容易に接近できた、南側の2箇所を調査しました。

この時期だから近づけた遺構

今回この散策ができたのは、時期的な理由も大きいです。というのも、この場所はこの通り笹原ですので、夏場はかなり背丈のある笹に覆われます。また、虫も多いです。さらに、このわずかな地面の変化を辿ろうとすると、やはり笹に視界を遮られるのは厳しい。まして、ここは平らな場所に見えますが、海抜100m以上の断崖の上に広がっています。うっかり足を踏み外して崖下に真っ逆さま・・・なんてこともありえます。なので夏場の散策はNG。冬はもっとNGです。(^^;

で、目の前に現れた景色がこれです。

これだけだと、どういう光景なのかわからないと思うので、航空写真で示します。

丸のところから東向きに撮ったものです。なので明確に掘り込まれた道の先に、半円形の平場があるのが見えているという状況です。

上の写真をよく見ると同心円上に跡が見えると思いますが半円形の中心部分には窪みがあり、その中央に一段高い円形の部分があります。それこそ機銃か、サーチライトか、レーダーでも設置されていたかのような跡です。

そして半円形の平場の周囲はやや高く土が盛られ、土塁のような構造に囲まれています。図にすると以下のような感じです。

少し角度を変えて撮った写真が以下です。

実際に見るとよくわかるのですが、写真だと土地の起伏がわかりにくいですね。これは南側の一段高いところから撮ったものです。

そして、ここに上がってみて気づいたこと。南側に同じような構造がもう一個あり、道が通じています。

途中の分岐点が笹で覆われており、道に気づきませんでしたが、笹を3メートルほど抜けると道に出られそうです。

というわけで、途中まで戻り、道があると思われる場所に踏み込みます。

すると道が出現。左に大きく曲がった先には、先程見たのと同じような半円形の平場。

ここも北側の、1つ目の平場と全く同じ構造をしていました。
一体これはなんだろう? 謎は深まるばかりです。

手がかりになりそうなのが、西側にある、ミッ◯ーの耳のような小さな2個の円形の空間。これも土木工事によって作られた形跡がありますので、何らかの付帯施設だったものと思われます。
ここに設置されていたのが機銃とか野砲なら、弾薬を溜めておいたスペースかもしれませんし、あるいはここに詰めていた兵士の休憩スペースだったのかもしれません。

とりあえず今回の調査結果は以上ですが、もう少し文言調査した上で、もう一度ちゃんと調査してみたいですね。

室蘭の人口減と、観光業の可能性

先日、室蘭港立市民大学で講演させて頂いてきました。
今回は、ほぼ初めて接触する層に対するお話というのもあり、観光の話をする前に、「なぜ、今室蘭で観光なのか?」を、少し掘り下げて説明しました。

その説明が割とわかりやすくまとまったように思えるので、一部抜粋してここに掲載します。

減り続ける室蘭の人口と市場規模

室蘭市の人口が今、年にどのくらいのペースで減っているか、おおまかでも把握している人はあまりいないと思います。聞いてみると、今の室蘭の人口を把握していない人も結構いるほどですので。

室蘭市の人口は、約8万3千人です。
正確には、2019年9月末時点で83,289人(住民基本台帳ベース)です。

では、今室蘭市では、年にどのくらいの人口が減っているでしょう? その答えとして、直近10年の人口と世帯数の推移を下に示します。

年度 世帯数 人口 増減
2009年度末 47,835 95,150 △900
2010年度末 47,790 94,216 △934
2011年度末 47,589 93,078 △1,138
2012年度末 47,274 91,726 △1,352
2013年度末 47,069 90,181 △1,545
2014年度末 46,787 88,793 △1,388
2015年度末 46,491 87,569 △1,224
2016年度末 46,101 86,061 △1,508
2017年度末 45,715 84,655 △1,406
2018年度末 45,301 83,150 △1,505

この10年間の平均値を取れば、年1200人ほど。
でも、ここ5年くらいの平均値を見ると、年1500人ペースで減っています。

では、その人口減が本市経済に与えている影響を考えてみましょう。
総務省が毎年調査している「家計調査」によると、定住人口1人あたりが年間に消費する金額は約125万円だそうです。

1500人 × 125万円 = 18億7500万円

年間19億円近く、本市の市場が失われているということです。
こんなことを続けると、年商1億の会社が毎年19社ずつ倒産します。

今、何もしなくても、室蘭は毎年これだけ小さくなっているということです。この状況で若者が未来に希望を持てるでしょうか。

さらに、市は今後、室蘭市の人口が6万人程度になっても大丈夫なように、都市計画などの見直しを行ってますが。。。

人口があと23000人減るということは、このまちの市場規模がさらに290億円近く縮小するということです。

観光を新たな室蘭の産業の柱に

この人口減の問題、室蘭が全国的にも最先端を走ってますが、国も道も課題としてとらえています。だからこそ、国も道も観光立国を唱え、海外からの観光客を呼び込み、それを産業としてこの国を下支えしようとしているのです。国のVisit Japanキャンペーンも、道の観光の国づくり計画も同じです。

でも、僕たち室蘭市民にはなかなか、観光が産業というのはピンと来ません。重工業のまちである室蘭にとって、観光は単価が低すぎるため、なかなか具体的な経済効果が見えにくいのです。

というわけで、観光による経済効果を可視化してみたいと思います。
室蘭市の年間観光入込客数は、2018年度実績で124万人にもなります。それほど観光に力を入れているように見えない現状でも、これだけ来ているのです。しかも、2015年以降、増加傾向です。

例えば、この観光客が一人平均2千円の買い物を室蘭市内でしたら、年間の経済効果は24億8千万円になります。
先程、人口減により年に19億円近く市場が減っていると書きましたが、観光客に2千円、余分に使ってもらえれば、補えるだけのお金が室蘭に落ちるのです。

2千円くらいなら、なんとかなりそうだと思いませんか?
例えば、今年リニューアルした道の駅「みたら室蘭」でランチを食べて、うずらんソフトを食べて、お土産を何か買ってくれたら、ちょうど2千円くらいです。

宿泊ならもっと容易です。宿泊費が1泊1万円近いうえ、泊まるということは夕食を室蘭で食べるということなので。
夕食だと、大人の方なら軽く一杯引っ掛けてもらえれば、すぐ数千円になります。

年25億の売上があれば、年商1億の会社を新たに25社養えます。それぞれが市民を雇用すれば、雇用も生まれ、人口減にも歯止めがかかるかもしれません。

また、観光入込客数が例えば6万人増えて130万人になれば、一人2千円計算でも1億2千万円収入が増えます。

もちろん、製造業に比べれば、その経済規模は小さなものです。でも、すでに来ている観光客に、すでにある地域資源を活用して室蘭でしかできない体験をしてもらい、対価をいただく。そこに大きな資本投入も不要ですし、アイディア次第で個人でも参入できる業種とも言えます。その参入障壁の低さから考えると、若者が自分のアイデアを試すには絶好の土地とも言えるのではないかと思います。

参考データ